1964年7月14日名古屋市の国鉄名古屋鉄道病院(現 名古屋セントラル病院)で生まれました。
 父親は国鉄職員で、当時国鉄のビッグプロジェクトだった新幹線の開通にインスパイアされ「ひかり号」が「光一」という名前の基礎になったと聞かされています。(安易)
 幼少期は愛知県稲沢市にある国鉄の官舎で暮らします。稲沢市は当時国鉄の三大操車場(稲沢、吹田、新鶴見)といわれる巨大な貨車操車場があり、そこで勤務する国鉄職員の官舎が集積していて完全に国鉄の街でした。操車場としては国鉄民営化の前に機能を停止し、国鉄民営化とともに稲沢駅周辺の商業地としての賑わいはほぼ消えました。最近は操車場跡地の区画整理で賑わいを取り戻しています。
 小学校は父親の転勤に付き合い稲沢東小学校、小坂小学校(現 岐阜県下呂市)、下津小学校(稲沢市)の3校に通いました。一番思い出深いのは小坂小学校。山と山に挟まれた土地、冬になるとどこかにほぼずっと雪がある、などそれまで過ごした稲沢市との環境の違いが印象的。
 中学校は稲沢市の次郎丸中学校。卓球部に入部しかなり頑張りましたが、愛知県代表のちょっとだけ手前で敗退。
 高校は名古屋市にある中村高校。当時はなかなかの進学校で100人位が名古屋大学に進学していました。クラスに10人ぐらいは名古屋大学の受験者がいた感じ。そんな中でどうにか名古屋大学経済学部に滑り込みました。入学当初は卓球部に入りました。しかし、続かないのです。お金が。まず、アルバイトをする時間が制約される。また、一定サイクルで遠征がある。私が入ったときはすぐに北海道へ。どうもこれがまあまああるらしい。親に無心する手もあるのですが、それほど卓球が上手なわけではないし、親は結構ケチ、冷静に考えてみるとそれほど卓球に思い入れがあるかというとそうでもない気がしてきた。そんなこんなで半年もたないでやめました。大学行って体育会の部活動続けるってなかなか贅沢なことだったのだ、と気づきました。
 卒業後は株式会社十六銀行へ。母と祖母から地元の会社に就職するよう固く言い渡されていたのと、大学のゼミで金融論をやっていたことから、この条件の中では最良の選択でした。仕事ではつらい思いもありましたが、当時の不動産鑑定士の試験制度で必要だった3年間の実務経験のために不動産鑑定業者に出向させていただいたこと、退職間際の約7年はグループ会社を不動産鑑定業者として登録して不動産鑑定業をさせていただいたことなど大変感謝しています。60歳の定年の歳となり、企業には65歳までの雇用義務があるようで望めば定年延長していただけるようでしたが、今が最後のチャンスかと思い、定年退職して独立開業することを決断しました。