南宮大社(不破郡垂井町)

  不破郡垂井町に所在する神社です。HPには「金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)は初代神武天皇東征の際、八咫烏(やたがらす)を輔けて(たすけて)大いにお力を顕わし不破郡府中の地にお祀りされることとなりました。 後に第十代崇神天皇の御代に現在の地に鎮座なされます。」と記されており、神武天皇の頃から不破郡にお祀りされており第十代崇神天皇の御代に現在の場所に設置された由。崇神天皇は実在ではない説もあるので正確な創建時は明確ではないものの、国内神社の中では相当歴史を有する部類のものであろうと推定されます。

 さらにHPには「現在の建物は、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦の兵火によって焼失したものを、寛永十九年(1642)、春日の局の願いにより 三代将軍徳川家光公が再建したものです。」とあり、朱色鮮やかな現在の建物が江戸時代に建立されたものであるとされています。

 関ケ原の戦いのときには南宮山の頂上付近に毛利秀元が陣取り、その跡地には石碑などがあります。毛利氏は表面上は西軍(豊臣方)についていましたが、事前の情報戦などで東軍とも通じていて、有力家老の吉川広家が山の麓に陣取って毛利秀元さんを牽制・補助などの役目を負っていたようです。これに対してガチの西軍勢の長曾我部氏、長束氏、安国寺氏などが、早く出陣するよう毛利秀元を催促するのですが、吉川氏がこれをとどめ、毛利氏もこれに応じ、兵士らに弁当を食べさせているところだ!?という言い訳で出陣をぐずぐずと伸ばしていたということになっています。これが「毛利の空弁当」などと呼ばれているようです。(「関ケ原」司馬遼太郎をはじめとする多くの小説にこのエピソードが使われている。)こういった判断のおかげで毛利氏はその後も継続することができ、幕末には長州藩として重要な役割を果たすこととなる訳です。

 「弁当中」が出陣をしない理由にできるというのは少々驚きで、仕事などではちょっと考えにくく、「お客さんが怒鳴り込んできているぞ!」「今は弁当中ですからお待ちください。」というのは理由になりえないし、ここまで明らかに理由になりえないネタを使うのだから、「本当は違うんだよ!イヤなだけなんだよ。」ということが読み取れそうなものです。読み取れないのならいろいろなものに適性がないだろう。

 実際、関ケ原後も存続している毛利氏に対し、長曾我部氏、長束氏、安国寺氏らはなんやかんやで存続できずそれぞれの悲劇を抱えている。関ケ原合戦前の情報戦で彼ら三家は①毛利氏の方針を理解してそこに従う又は②豊臣へのご恩を通すため西軍につく。②の場合真面目に戦うには南宮山は戦場から遠すぎるので、せめて桃配山くらいまでは接近して陣取るような作戦が必要でしたね。

 それもしないで、見え見えの毛利氏にごちゃごちゃ言ったとしても、夜中にアイスクリーム食べよっか!?って誘いに付き合って、心中で、まぁダイエットは明日からでいいよな、みたいな言い訳している見苦しさですね。アイスクリームはいいとしても戦国時代の天下分け目ですから、作戦はきちんと考えないとね。

 

 鮮やかな朱が印象的な神社です。

以上