関ケ原(司馬遼太郎)

                             関ケ原古戦場記念館 

  関ケ原、言わずと知れた天下分け目の戦いの地。去年のお盆休みの時期に関ケ原町の役場に行ったのですが、隣の「関ケ原古戦場記念館」多くの方がに行列をなしておられるのを見まして、「そういえば司馬遼太郎の関ケ原、昔読んだと思うんだけど、もう一度読んでみようか。」ということで、探してみたけれど見つからず、仕方がないのでもう一度買いました。(なぜか買ってしまうと、どこかから出てくるかもしれない)
 「関ケ原」に限らず、歴史もの全般に言えるのですが、エンディングは既に明らかになっている訳で、その前提条件のもと読者の興味をつなぐには、途中にある小さなストーリーや出演者の心の動きなどで、何かを表現するわけで、そのために名もない創作のキャラクターを編み出したりもする、つまりあらかじめ決まっているメインのストーリーを前提にどうにか読者の興味を引いて見せる、そう考えると司馬遼太郎はなかなか困難な道を突き進んでおられた訳です。
 決まっている物語をなぞってみても意味がないのですが、気になったエピソードを2つ挙げます。
1.藤堂高虎:恰好いい名前、聞くところでは城作りの名人等々素敵な人物のはずなのですが、本作ではなぜか茶坊主のキャラクターとして描かれます。藤堂高虎がそういう人物であるとは知らなかったので少々違和感があるのですが、司馬遼太郎は彼なりに何らかの資料に基づいてエピソードを作っていることが多く、時には話の腰を折ってまでもエピソードとその根拠を(自慢げに)開陳することがよくある。そうするとおそらくでたらめではなかろうと思うのですが、やはり違和感が大きい。まだ関ケ原の戦いが始まる前から、徳川家康を「上様ぁ~、上様ぁ~」と呼ぶ場面は笑いを誘う。でも、よく考えてみると誰に味方をするか、というのは一族郎党の運命を左右するわけですから、こういった茶坊主行為は当然なのかもしれない。「義」なんてよく考えると、正しいかどうなのかよくわからない事のために一族郎党とともに滅んでいくのであれば、石田三成より藤堂高虎の方が聡明であった、と言える。
2.浄土真宗の本家が東本願寺と西本願寺に分かれたのは、もともとは織田信長と石山本願寺の争いが原因だと思っていましたが、この関ケ原には「えっ?!」というエピソードが登場します。我が家は東本願寺つまり真宗大谷派のお寺のご住職が毎月お経をあげに来てくださるので、このエピソードも「ホントかな?」という気もしますが1.と同じく司馬遼太郎のエピソードはそれなりに何らかのエビデンスに基づいていることが多いので全くの創作ではなかろうと思う。
 石田三成は「お気の毒」というよりないですが、仮に関ケ原で前半優勢のまま勝ったとしたら、豊臣秀頼&三成では徳川幕府のような安泰の世の中は難しかったろうと思う。三成さんは少々独善が強すぎて客観視というか、全体を見る力が弱いですね。現在であっても、こういうタイプは上に立ちづらいし、立ったとしても敵対勢力をうまくかわせないと思う。そういう思いで読んだ本でした。
 ところで、徳川家康の本陣であった桃配山の近くに現在、おそばやさんがあって、たぶんここは以前名神高速の関ケ原I.C.の近くにあったと思うのですが、量があって満足感の高いお店でした。桃配山の店舗はなかなかご立派で、関ケ原IC近くの店舗からずいぶん出世したものだ、と思います。