『吾輩は猫である』殺人事件(奥泉 光)

すごく良い小説に出会って、終わりが近くなってくると寂しさを感じる事がある。つまりそれはすごく良い小説である証なのですが、その小説に続編があったとすれば、これほど嬉しいことはない。
この場合『吾輩は猫である』殺人事件、は良い小説の「続編」にあたります。そして良い小説は「吾輩は猫である」。夏目漱石の第1作。
吾輩は猫であるの素晴らしさは、カオス(CHAOS ケイオス※)というか、ストーリーがあるのかないのかわからない状況の中、個性の強い面々が好き勝手な発言をしながら、なぜかそれなりに治まっており、結果として当時の世相への皮肉であったり、茶化しであったりしており、ややこしい言葉遣いであるかに見えて案外わかりやすいという多面性だ。
『吾輩は猫である』殺人事件はこの「吾輩が猫である」の素晴らしい空気をそのまま受け継いでおり(但し、数回出てくる「知らなんだ。」的発言は元作には見当たらない。)なおかつ、それがミステリー又はSFになっていて、これほど素晴らしい小説は滅多にない。
この雑文を読んでくださる方がいったい何人おられるか判らないのですが、その方々には強く推奨する小説です。
ただし、『吾輩は猫である』殺人事件、に着手する前提として「吾輩は猫である」は読破していなければならない。そして、それを面白いと感じる方でなけらばならない。(当然ですが、面白いと感じない方がその続編を読んでも当然つまらないのです。)さらに「夢十夜」という短編集があるので、そちらも必須です。そのほかに夏目漱石の小説をいくつか読んでいれば、それはプラスになりえますが、まぁそんなものは無くても全く問題はない。(途中で、あっ、あそこから持ってきたな、と思ってニヤッとする程度の喜びですので。)
もし、この駄文を年の瀬に読んでくださる方がおられれば、せっかくのお正月休みは「吾輩は猫である」から始めていただくのが大変格調高いお正月が約束されているでしょう。「夢十夜」から始めたとしても同じく格調高いお正月に変わりはありません。
以上
※ ところで、新日本プロレスの「CHAOS ケイオス」は一体どうなっているのか?オカダはいないとしても後藤や石井など素晴らしいメンバーが残っているだろう。

